患者さんからの声
〜一番遠くから来た患者 ドイツ/デュッセルドルフ市在住 会社員〜
ドイツと聞くと大抵の人は先ずソーセージとビールを思い浮かべることと思う。
ライン川を挟んだ旧市街
しかし、ドイツの都市となるとなかなか思い浮かばない。ベルリン、ミュンヘン、ハンブルグ、フランクフルト位は何と無く聞いたことがある様な気がするし、よく知っている人なら、ドイツが未だ東西に分かれていた時代の西ドイツの首都ボンを挙げる人もいるだろう。しかし、ドイツで日本人が最も多く住むルール工業地帯の中心であるライン河沿いのデュッセルドルフを知っている人は少ない。私は勤めている会社の仕事で、そのデュッセルドルフに駐在している。それで、デュッセルドルフに住んでみたドイツの病院事情と、私が経験した歯痛奮戦物語を紹介したい。

海外駐在に伴う煩わしさと言えば、引越しの度に日本の持家アパートの賃貸借入人を捜さなければならないこと(ボロアパートでも何年間も空家にしておくのは勿体無い)、そして電化製品や車を処分したり新任地に於いて新たに購入しなければならないこと、子供の学校のこと、生活上の言葉の問題等々数限り無くあるが、一番の問題は体の健康のことだ。海外に赴任する時には、駐在中現地で言葉の慣れない病院に行かなくても済む様に、出発前に大量に薬を買い込んで持参し、そして海外で生活している間は普段から病気にならない様気を付ける。

勿論、大病を患ってしまったり不測の事故で怪我をした様な場合は背に腹は変えられないので覚悟を決めて止む無く現地の病院に駆け込まざるを得ないが、胃痛とか風邪くらいなら少々苦しくても大抵は日本から持って来た薬を飲んで、治る迄我慢してしまうことが多い。

しかし、歯の場合はそうはいかない。一旦痛くなりだすと、我慢していれば自然に治るということは無い。そして、痛いのは痛いが我慢出来なくも無い、しかし、日毎に痛みが増して憂鬱な日が続き、遂には我慢出来なくなるということが多いからだ。(歯痛で数ヶ月悩んだ経験のある方はよく理解出来ると思う。)
海外への赴任と言っても、ナイジェリアのラゴスとか、インドのムンバイ(元ボンベイ)とかの様に、とても現地の医者に行く勇気は湧かない土地への駐在もあるであろうし、もっと言えば、銅鉱山の開発とか、化学プラントの建設現場の如く、廻りに医者さえ居ない場所に赴任することもあると思う。その点、私の場合西欧先進国たるドイツなので、人に依っては「ドイツと言えばかつて日本が医学のお手本にした様な国なのだから医者に行くのは問題無いだろう。」と言う。確かに発展途上国に行くことを思えば恵まれているのは事実だが、それはそれなりに悩みはある。先ず、ある程度はドイツ語が出来ても言葉の障害は想像以上に大きい。

「2〜3日前から背中の背骨の横の腰の上あたりが針を束ねて刺す様に痛くて、トイレに行っても下痢という程では無いがやや緑がかった軟べんが続き多少血も混じっている様だ。」とか、「温かくなった先週から眼が充血して来て喉も痛い。3日前からは朝起きたら目やにも溜まり、時々視界がかすれることもあり、右眼の上に蝶々が飛んでる様に感じることもある。」とか、或いは「階段で転んだ時にひっくり返って背中から落ちてしまい肘を突いた瞬間に肩がグキッという音がして痺れた様な痛みを感じ、夜腫れて肌が紫色に変色したので湿布で冷したら腫れは引いたけれど、今でも肩を後ろに廻すとカクッカクッという様な音がしてちょうつがいが外れた様になり、その後3分位は重い物で押し潰される様な痛みが続く。」という様なことをドイツ語でしゃべるのは相当骨が折れるので、考えただけでも医者に行くのが嫌になり、我慢出来るものなら我慢しようという気になる。

ドイツは東西の統一が成り国際化が進んでこの10年位で大分英語が通じる様になったとは言っても、英語にしたって我々日本人にとっては事情は同じである。それに、ドイツは(他の欧州の国は知らないが)医者に行く迄が大変である。

先ず、病院の電話番号を調べてドイツ語で予約を取るのが面倒で、この時点でくじけてしまう。(先生は英語が出来ても受付の人が英語が出来ることは希である。)それに、電話で予約をしても1ヶ月先を指定されたりして、いくら「今痛いんだから何とかしてくれ」と言っても埒があかない。1ヶ月先など少々の病気だと我慢している内に治ってしまうのだ。勿論「指定救急病院」というのもあって、救急車を呼べば自動的に連れて行ってくれるのだが、そこ迄はなかなか踏み切れない。

又、ドイツ人は服装や食事にはお金を掛けないが、その分家具と車と夏期休暇にはお金を注ぎ込む癖があって、特に夏期休暇は人生の目的の様に思っている人も多く、これは医者も同様で、病院に予約の電話を入れても「1ヶ月休みです」という空しい留守電のメッセージが入っていることもよくある。

それで、日本を出る時買って持って来た市販の薬で我慢してしまうことが多いのである。(因みに、ドイツには街中至る所に薬局があるが、病院で医者の書いた処方箋を持参しなければ薬は買えない。処方箋が無くても買えるのは、アスピリンとビタミン剤くらいである。それで、ドイツ赴任の際はあらゆる病気/怪我に対応出来る様に、日本から薬を持参するのである。)
旧市街全景
そういう劣悪な病院事情の中でも歯は最も厄介なものの一つである。
ライン川の反対側の風景(テレビ塔)
予約を取る難しさは他の病院と同じなので、先ずここでメゲる。次に何とか予約を取って行くと、それでも散々待たされた挙句(予約は一体何の為なのだろうか?)、診療椅子に坐らされると、こちらから拙いドイツ語で症状と今に至る経緯を鏤々説明するのだが、説明が終わるか終わらない内にいきなり麻酔注射を打たれる。そしてあのドイツ人の先生のまるでグローブの様なゴツい指が侵入して来るとほっぺたが引き裂かれてしまうのでは無いかと思われる程に、歯よりも顔が痛い。そして気が付くと、何と!歯が無い。これを読んでる方は「そんなアホな」とお思いかも知れないが、大体日本人が当地の歯科医院で体験する80%はこれである。

 

  即ち、ドイツで歯医者にかかったことのある人は、殆どの人が知らない間に歯を抜かれてしまった経験を持っているのである。これが内科や皮膚科であったなら、場合に依っては自分の判断でもらった薬を飲まないとかの自衛手段もあるのだが、歯の場合、問答無用でいきなり抜かれてしまうのでは抵抗する暇も無い。従い、ドイツに住んでいる日本人は皆異口同音に「歯医者にだけは行きたくない」と言う。それでもここデュッセルドルフでは数年前に日本人の女性の歯医者さんが開業したので、皆「もう歯に就いては心配は要らない」と安心していたのだが、その先生が昨年止めてしまい、又々歯に就いては暗黒大陸になってしまったのである。

 私の場合は以前にもドイツに駐在したことがあり、こういう歯医者事情は熟知していたので、今回の赴任が決まった時も真っ先に歯科に行って「向う5年間は歯で悩まなくても良い様に、虫歯では無くても駄目になりそうな歯があったら全部治して下さい。」と歯医者さんに頼んで、詰まっている患者さんの予約の合間を縫って時間を取ってもらい短期間で無理矢理治療して来たので、歯に就いては全く心配していなかった。(いくらある程度保険がきくとは言ってもこれだけで相当な散財ではあったが。)

 それにも係わらず、歯痛はある日突然やって来た。朝起きると右上の歯が猛烈に痛いのである。その痛さと言ったら、どの歯が悪いのか判らないくらい奥歯一体が痛く、舌で上の歯に触っただけで脳天に突き抜ける様な激痛が走る。徐々に痛くなるのでは無く突然痛み出したので単なる虫歯で無いことは素人乍ら判ったので、これはもう会社に着いたら歯医者の予約を取るしか無いと覚悟を決めたのだが、会社に行ったら又々ドイツ人の先生のゴリラの様な手とオリバー・カーンの様な顔を思い出してなかなか予約を取る気になれず、仕事でなるべく痛いのを忘れる様努力し乍ら、結局その日は、食事は消毒を兼ね(?)アルコール飲料のみで済ませ我慢してしまった。(何しろ全く噛めないし、第一口が開かないので何も食べられないのだ。)

 処が、翌日になると、痛いことには変わりは無いが、心なしか前日よりは痛みが軽くなっている。しかも、痛い歯は右上の奥歯から2本目だということも知覚できる様になった。これは「早まってドイツの歯医者に駆け込んではいかん」と思い暫く様子を見ることにした。その又翌日になると、更に痛みは軽減している。それで意を強くして2〜3日様子をみると、物を噛めば勿論痛いが不思議なことにじっとしている分には余り痛く無くなってしまった。しかし、いずれにしてもこのままにしていて良い訳が無い。しかも、今回の場合は痛さの性質から言っても単なる虫歯とは思えないので痛みを我慢して放っておいたら面倒なことになっていつかは手遅れになってしまうのではないかという不安も芽生えて来た。これは何とかしなければならぬと思案した結果、ドイツに赴任する前に高校時代のクラスメートが「歯で随分苦労したが、いい先生に巡り合って完全に治った。」と話していたのを思い出し、夜中に、日本の会社の始まる時間まで待って(日本の方が8時間進んでいるので、ドイツの夜中の2時が日本の朝の10時である)、友人の会社に電話を掛けて相談してみた。その時紹介されたのが、弘岡先生である。

何でも、弘岡先生は開業して純風漫歩だった自分の医院を閉めてまで一念発起して歯学では世界最高峰と言われるスウェーデンに留学し、今では日本に於けるスウェーデン歯学の権威とのことであった。しかし、そんなことを聞いてみても、ドイツに住んでいて、しかも既に痛くなってしまっている歯を抱える身では何の足しにもならない。一刻も早く今の痛みを何とかして欲しいのだ。その時、ちょうど会社の仕事で日本への出張の話しも持ち上がっていたので、その機会を利用して弘岡先生に診てもらうことを考え付いた。

 余談になるが、先程書いた様にドイツに住む日本人は「歯医者にだけは行きたくない」と思っているので、その解決策として日本へ出張する機会を捉えて歯医者に行くことは誰でも考え付くのだが、これがそう上手くは行かない。内科や眼科であれば診てもらって病気の説明を受け、取り敢えず薬だけもらうということも可能だが、歯の場合は治療して型を取って入れるだけでも1週間以上かかってしまい、一方仕事での日本出張となると精々1週間が限度なので、とても無理なのである。そこで、私の友人は弘岡先生には随分長期に亘って治療してもらいその間に親しくもなったというので、事情を話して何とか1週間で治してもらう様頼み込んでもらい、幸い弘岡先生から快諾を得た。

旧市街真中にある市庁
 扨て、日本への出張も本決まりとなり、12月の師走の慌ただしい中、
旧市街の街並
日本に着いた翌日弘岡先生に診察してもらう日がやって来た。

 しかし、最初に痛くなってからは既に2週間以上経過しており、この頃になると、ものを噛むとやはり痛いが普通にしていれば激痛という程のことは無い。「ひょっとしてこのまま放っておいてもいいのではないか」とか、「出張中の時間を無理矢理遣り繰りして、しかも高名な先生にわざわざ頼んでまで診てもらう必要も無いのではないか」、更には「高名な先生とは言っても結果的にはドイツの歯医者に診てもらうのと同じ結果になるのではないか」等々様々な思いがよぎって来てもいた。しかし、今更無理にお願いした予約を勝手にキャンセルする訳には行かない。覚悟を決めて日比谷の高層ビルにある弘岡先生の医院のドアをノックした。

 先ず、最初に念入りにレントゲン写真を撮られる。そして待つこと15分、いよいよ弘岡先生の登場である。焼き上がったレントゲンをじっくり睨み、そして、私の口の中を念入りに観察した後いきなり「これは、駄目ですね。」の一言。「ダ、ダ、ダメってどういうことですか?やっぱり抜かなきゃ駄目ってことですか?」とこっちは真剣だ。「要するに、以前虫歯を埋めたのはいいのですが、治療が未熟で隙間が出来ており、それを長年放ったらかしにしていた為にばい菌が入り、歯の内部を侵食して膿が溜まりそれが肉の部分まで侵して神経に迄達したので激痛がしたのです。しかし、神経が腐って死んでしまったので一旦は痛みが治まってはいますが、それが更に内部に進行すると今度は今迄の痛みでは済まないでしょう。しかも、あなたの場合は悪いことに、元の虫歯は相当大きなものだったので歯全体をガードする必要があったのに、簡単に言えば穴を塞いだだけの治療しかしていない。あなたは多分ストレスの多い職業に就いておられるのだと想像しますが、元々噛み合わせが悪い上に強く噛む為に歯の内部にヒビが入ってしまっています。それで駄目なのですよ。」とのこと。実によく判る明解な説明ではあるが「では一体どうなるのだ?」と一層不安になる。

 先生の説明では「これでは、まぁドイツの医者にかかっていれば、その場で抜かれていたでしょうなあ。じゃあどうするかですが、先ずは膿を完全に除去して中を洗浄しなければなりません。そうすれば化膿して腐食されている歯肉部分もいずれは復元されます。普通これに2〜3ヶ月は掛かります。それ迄は仮歯で凌ぎ、然る後に穴の空いた部分を埋めるのです。しかし、あなたの場合続けて通院出来ないことが問題です。しかも歯にヒビが入っており、単に詰めたのではいつか完全に割れてその時には今の痛さの比ではありません。従い、今の歯を残すのであれば、余りやりたくは無いのですが、歯の廻りを削って上からすっぽり被せる方法しかありません。

  多分ここ迄やれば、歯が割れる危険性は残るが大抵の場合半永久的にもちます。」とのことであった。しかし、ドイツに住んでいる身としては何ヶ月も治療に掛かるというのは大いに困る。「先生何とかなりませんか!兎に角1回で治して頂きたいのです。」と懇願した処、「これは、一種の賭けになりますが、一つの方法は今日このまま患部の膿を全部出して1回で洗浄してしまい、あなたが帰国される来週迄1週間蓋をしておき、その時点で悪化していなければ、それ以上の菌の侵食は無いことを祈って仮歯を被せ、ドイツに帰って様子を見て何ヶ月か後に再び日本に来られる機会があれば、その時来院して頂き仮歯を取って中がきれいなままであれば、そこで一気に治療して歯を被せてしまうことです。次回出張と言っても又1週間しか時間が無いでしょうから、その為には無駄になるかも知れませんが、今回型を取っておいて次回その場で歯を被せるしかありません。」ということであった。

「ふ〜む。なるほど!」 だが感心している場合では無い。

決断を迫られているのだ。しかし、いずれせよこのままにしておいたのでは、その内ドイツの医者で抜くしか方法が無くなると思われたので選択肢は無い。即座に「先生、お願いします。」と言ってしまった。しかし、その日は日本出張の第1日目であり、夜は予定された会食が控えていてキャンセルする訳には行かない。「先生のおっしゃる通りやって頂いて構わないのですが、今晩何とかお酒を飲める様にして下さい。」と頼んだ処、「あなたも無茶を言いますなあ。ではちょっと痛いかも知れませんが、麻酔無しでやりましょう(ギョッ!)。但し、夜痛みが出たり出血した場合は必ず酒は止めて下さいよ。なに、なるべく痛くない様にやりますので任せて下さい(ホントか?)」とのことで、早速治療が始まった。化膿した個所は相当奥まで進行しているらしく、治療されている方としては具体的に何をされているのかはよく判らないが、棒の様なものを入れて菌を出す作業を続けているらしい。

旧市街の街並

  しかし、歯に棒を差し込まれているというよりも、不思議と痛くは無いのだが、眼の下あたりまで挿入されている感じで違和感はある。こんなに奥までばい菌で侵されていたのかと思うと暗澹たる気持であった。先生も「よくこんなになるまで放っておきましたね。普通は痛くて我慢出来ないはずなんですが。」と言う。そうして治療が続けられて行き約3時間が経過したところでやっと、「終わりました。もし、2〜3日の内に異常を感じる様ならすぐに連絡を下さい。酒は痛くなければ飲んでもいいですが、歯が割れ易い状態になっていますので来週来る迄は固いものは噛まないで下さい。」とのことで開放された。

 そして、1週間後のドイツに戻る前日に再度診察を受けに行った処「一応洗浄は上手く行っています。多分これでいけると思いますので、今日型を取ります。このままドイツに帰ったら様子を見て、次の出張の予定が決まったら連絡を下さい。来院出来る日に合わせて冠を作っておきます。」とのことだった。「先生、もしドイツで又突然痛くなったらどうしたらいいんでしょうか?」と以前からの疑問を恐る恐るぶつけてみた処、「薬を差し上げますので、痛くなったらそれで次に日本に来るまで我慢して下さい。もしどうにも我慢が出来なくなったら、その時は諦めてドイツの医者に行って抜いてもらうしかありません。その際、単に『この歯を抜いてくれ』とだけ言って他の治療は一切しないで下さい。」とのことだった。又新たな不安が芽生えて来た様な気もしたが、しかし、やり始めたことなので、今更後戻りは出来ない。

 そして、ドイツで暗くて寒い冬が終わり春になって、最初に弘岡先生に診てもらってから4ヶ月が過ぎようという頃、再度日本出張の話しが持ち上がった。早速弘岡先生に連絡を取り、診療日を決めてもらった。その間4ヶ月は、今となっては短かった様な気もするが当時の心境としては実に長かった。先生には「仮歯といっても頑丈に作っていますから普通にものを食べて大丈夫です」とは言われていたが、既に型を取ってしまっているので、ヘタに固いものを噛んで今の歯の形が変わってはいけないとの素人考えで、日本から来たお客さんと食事する場合でも、ドイツ料理なら、ドイツ名物の豚の骨付き丸焼きは控えなるべくジャガイモ料理で我慢する。日本料理を食べる際には専ら湯豆腐にするとか、それなりの苦労はした。お陰で、体重が増えず少しは中年太りも防げて一石二鳥だったかもしれないが…

 そして、多少の不安を感じつつも弘岡先生を訪れた処、再度入念なレントゲンを撮った後、先生が仮歯を外して、例の如く丁寧に観察した結果「大丈夫の様です。このまま化膿が進行する恐れはありません。未だ完全に治ってはいませんが、あなたの場合仕方ありませんので、このまま冠を被せます。ヒビが完全に割れてしまわない様歯を固定すると共に、傾斜を付けて噛み合わせる際圧力がかからない様に工夫しておきますので、まずこれで完全に治ると思います。」とのことだった。そしてその日は、前回とは異なり麻酔をしてから治療を行ない、その日の内に冠を被せてもらった。最後に日本を発つ前日に仕上げをしてもらい、たった4回の診療ではあったが、4ヶ月に亘る歯の治療が完了したのである。

 私の歯科奮戦記も意に反して長くなってしまい、ここ迄辛抱強く読んで頂いた方は、「随分大袈裟な」とお思いかも知れない。実際、日常の生活では歯に気を付けるということは余り無いし、それに、歯の場合は、胃痛や頭痛とは違って多少痛くなっても原因と症状と今後の成り行きが素人乍ら判る(様な気がする)ので心配するということは無く、「たかが歯だから」とか「まぁ、所詮歯だから」と安易に考えて長い間そのままにしていることも多い。しかし、他の病気と違って歯は一度悪くなると自然治癒ということは無いのだし、それに、髪の毛や爪と異なり一度取ってしまえば又生えて来るということも無い。弘岡先生も患者さんの歯はどんなに末期症状であっても安易に抜かず、最後の最後まで残す努力をするそうだ。1本でも自分の歯で無ければ噛み合わせも崩れて来るし、それが元でいろんな症状/病気の遠因にもなるとのことだった。

 後で判ったことだが、弘岡先生の医院には全国津々浦々から患者が押し寄せるのは勿論、海外からも診察を受けに来る人が後を絶たないという。それでも、先生に依ると私が『一番遠くから来た患者』だということだった。私も、偶々仕事上の出張を利用して治療したのだから余り威張れたものでは無いかもしれないが、忙しい出張の合間を縫って歯を治すことが出来たのは幸運だったと思うと同時に、弘岡先生という人に巡り会うことが出来、本当によかったと思う。

 弘岡先生の治療を通じて一番感じたことは、先生の歯を通して患者さんの体全体の健康のことを考える姿勢と、可能性のあることにはどんなに困難が付きまとい回り道の様に思えてもベストを尽くす姿であった。私の様なサラリーマンの仕事はお医者さんの如き尊いものではないが、それでも、私も単に生活の糧を得るのみでは無く、日々の地道な仕事を通じて、少しでも社会全体に貢献出来る様努力しなければならないということを改めて教えられたのであった。

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